「魂整体師」おにぎり頭のこうちゃんこと小崎恒志(おざきこうし)のプロフィール

ニックネーム:おにぎり頭のこうちゃん

小崎 恒志(おざき こうし)
岩手県奥州市出身。
10歳の時に患った自身の難病を機会に治療師になった母の生きざまを見て育つ。
(父は高校教師。母は操体法専門の治療師として現在も現役(80歳)。今でも全国を飛び回って操体法普及活動を精力的にこなす)

15年間の水沢市役所での公務員生活を経て治療師の世界に飛び込む。
奇しくも、母が専門学校に入ったと同じ年齢(37歳)で同じ学校(赤門鍼灸柔整専門学校)に入学。学生時代からの5年間のインターンを経て、カナダのバンクーバーに移住。

ノースアメリカに日本の伝統的な民間治療法を普及すべく2003年にSotai Canada Clinic を開院。それ以来操体法を中心としたさまざまなエネルギー療法を独自の視点から発展させ、独特な治療スタイルを確立。現在に至る。

2016年にはいろいろな健康問題を抱える人向けのセルフトリートメント法として「魂整体」の開発に成功し、日本を中心に世界にむけての発信に日夜努力している。

Contents

肩書

Sotai Canada Clinic Director
柔道整復師
魂整体師
ソウルエッセンシャルメソッド・究極のマーケティング認定講師
操体プラクティショナー
DRT(Doublehand Recoil Technique)プラクティショナー
NES(Nutri-Energetics Systems)認定プラクティショナー

経歴

1978年3月 岩手県立水沢高等学校 卒業
1982年3月 神奈川大学 経済学部卒業
1982年 4月 岩手県水沢市役所に勤務
・水沢市教育委員会……無形文化財保護、歴史的建造物群保護など
・水沢市福祉事務所……生活保護ケースワーカー
・水沢市文化振興財団……文化会館(Zホール)の立上げから事業運営、及び舞台・照明・音響の管理
・水沢市……人事、総務など
1997年3月 水沢市役所退職
1997年4月 仙台 赤門鍼灸柔整専門学校(夜間部)入学
2000年3月 赤門鍼灸柔整専門学校卒業
2000年5月 国家資格 柔道整復師取得
1997年4月~2002年3月 奥州市 小崎整復院にてインターン(院長:小崎順子)
2002年4月 カナダ バンクーバー市にて治療ボランティアを始める
2003年4月~現在Sotai Canada Clinic 開業 操体とNESなどのエネルギー療法中心の治療院を経営

趣味など

ピアノ……小学校時代5年程度習ったが、その後高校卒業まで独学で演奏を続ける。映画音楽などの耳コピーが得意だった。
尺八……父が都山流師範だったので、中学~大学1年まで。かなり高い免状を持っていたので、今考えるともったいないことをしたなと思うが、物足りなさを感じていた僕はフルートに浮気してしまった!!。
フルート……大学2年で、大学の教室でやっていたフルートアンサンブルに「一目ぼれ」(…って言うかな??)
その当時、横浜に住んでいて尺八の師匠もいたにもかかわらず、すべてを捨ててフルートに楽器を変えた!

その当時、外国語学部でスペイン語を学んでいたが、フルートに傾倒する(1日6時間以上毎日練習していた)あまり、学業が疎かになり退学の憂き目に会う。しかし、学費を4年間しか払わないという親との約束があったので、短期間で必死に勉強して、同じ大学の経済学部3年に編入することができた。

当初は、クラシック一辺倒だったが、社会人になってからジャズと出会い、週末はジャズ喫茶でジャムセッションを繰り返しながら、フルートを吹く生活は実に20年以上続いたが、カナダでの厳しい生活環境でお預け状態である。

好きな本

生体の歪みを正す(橋本敬三 著)
思考のすごい力(ブルース・リプトン 著)
幸福なる人生(中村天風 著)
いのちの輝き(ロバート・フルフォード 著)

好きな言葉

本当のことは目に見えないんだよ。だから心の目でみるんだ。(by 「星の王子様」のキツネの言葉)

信念

目の前に起きたことをすべて受け入れて感謝できるようになるのが人生の目標だ。
※もちろん、できないので人生はそれができるようになるための修行の場だ。

かかわった全ての人と一緒に幸せになろう
※自分の成功や幸せは、ひとりでは絶対に達成できないことを身を持って知った経験から。

尊敬する人

母:小崎順子(操体の師匠でもある。80歳を過ぎてなお治療院を続けている生きるメンター)
Aki Miyaji(カナダで知り合った日本人で何から何までお世話になった大恩人)
深見純(私の若きメンター。FXを通じて人生を教えてくれた)
津久井由美(ソウルエッセンシャルメソッド創始者。魂整体の元になったメソッド)

仕事にやりがいを感じる瞬間

クライアントの人生の指針のお手伝いをしてうまく行った時。
1日の仕事が終わって肉体的には疲労しているが、精一杯自分の力を出し切った満足感があるとき。

どこまで自分の可能性を試せるか毎日挑戦し続けること。ワクワクドキドキすることを一生追い求めたい。

パーソナルデータ

・出身
岩手県奥州市

・生年月日
1960年3月22日

・血液型
O型

なぜ、カナダのバンクーバーで起業したのか?

1.自分の第2の人生は何もないところから始めたかった。
母の治療院でインターンをはじめて、業界自体が小さく狭いので非常に息苦しいことに気づいた。すでに本やDVDを発売していた母と常に比べられるのが嫌で、自分で一からできる場所を探していた。

2.たまたま知り合いがバンクーバーで操体法の弟子を募集していた。
ゆくゆくは、自分ひとりで治療院を開くとしても母以外の治療院の雰囲気を知っておくことは大切だと思っていた。同時に操体法についてできるだけ多くの情報を集めて、自分なりのスタイルを作りたかった。

3.大学で外国語学部を退学してから外国語恐怖症だったので、克服したかった。
42歳になるまで、この外国語恐怖症はトラウマになっていた。まったく英語からも離れていたせいもあり、カナダに来たときはまったく喋れなかった。しかし、外国での生活に憧れていたのでとにかく挑戦してみようと思った。

4.こちらに来てから知り合った日本人に助けられて、治療院を開くまでになった。
まったく、見ず知らずの日本人と弟子生活をしながら知り合いになり、日本に帰ろうとしたら真剣に引き留められた。バンクーバーに治療院を開いて欲しいというのだ。

すでに、ぼくがお世話になった治療院はあるものの、そこではダメだというのだ。就労ビザの申請、永住権の取得、クリニックを開くための行政的な手続きから場所の選定まで。すべて肩代わりしてやってくれた。今でもその人たちには、頭が上がらない。なにせ、英語をほとんど喋れずに永住権を取るなんて無謀に等しかったからだ。

しかし、移民コンサルトの力添えもあってあれよあれよと言う間にバンクーバーに住むことになった。

起業までの道のり

10歳で難病のリウマチ熱になったぼくは、ほぼ病院に入院する日数と学校に行く日数が半分半分という生活を15歳まで続けた。

しかし、治るどころか悪化するばかりでとうとう母は、県立病院の担当内科医とけんかをして、ぼくを強制退院させた。

その後、非常に変わった医師と出会い(西洋医師だが、漢方や代替療法、食事療法、運動療法をミックス)、ぼくは、3ヵ月で劇的に病気を克服する。

母は、これがきっかけで今までの洋裁の仕事を辞め、専門学校に通い、操体法の治療院を開業した。ぼくはこの時は気づかなかったが、医師や母に救われた命を他の人のために役立てようとする自らの使命を見つけるきっかけとなったと思う。

健康になった20代は、単身で暮らした横浜での大学生活、そこで出会ったフルートへの情熱的な興味と演奏への傾注、学部の進路変更などがあった。

外国部学部(スペイン語学科)を退学するほど、のめり込んだフルートだったが、がその後の市役所への就職そして結婚など、人との出会いを導き、自分自身の人生を個性的なものに導いた気がする。

なぜ、市役所を選んだかといえば、フルートを吹くのに一番時間を取れそうで、楽そうな仕事に見えたからだ。まあ、若気の至りといえばそれまでだが、人生はそんなに簡単ではなかった。

その後、最初の妻との結婚、出産、家の購入と順風満帆な生活が立て続けに続いた。

この年代では、10代で人生に暗い影を落とした難病から完全に脱却し、何の不自由もなく大学から就職、結婚と進んだ明るい時代であった。

しかし、その反面、人生に物足りなさを感じていた。

客観的に見れば安定した仕事や収入にも恵まれ、何の不自由もない幸せな家庭、尽くしてくれる妻などに、どうしても安らぎを覚えることが出来ずにいた。

結果として、好きなフルートを介して音楽友達との交流にのめり込み、仕事も大きなチャンスを得て、忙しくなったことを理由に妻以外の女性との関係を次々と作った。

この年代では、人生そのものが単なる幸運による積み重ねであると勘違いし、自分の使命や生き方に何の疑いも持たず、徐々に感じる心の奥底の虚しさやいらいらを妻以外の女性関係で晴らすという何とも破滅的な生き方に喜びを感じる様になっていった。

この年代の後半は、仕事の達成感と同時に感じる寂寥感や孤独感そして突き押されるように感じる破滅衝動にいつも悩まされ続けた。

それが、自分の人生の使命回帰への最初の1ステップであることに気付くのは大分人生の後半であった。

30代は20代とは打って変わって、次から次へと問題が山積し、その一つ一つが自分自身の内部を見つめずにはいられないような内容の深刻さを含んでいた。

妻との離婚。家を手放し、37歳の時に、15年勤めた水沢市役所を退職した。

その一連の流れは、自分自身が長年溜め続けた破滅衝動の結果であったといっても過言ではない。しかし、その時点ではなぜ、そのようなことが自分に起きるのかがわからなかった。

ようやく自分の人生を振り返るきっかけを得た私は、精神的な本を読み、気功などの体験を通じて自分の内面を見つめ直そうとした。

母が治療師であったことを最終的に思い出し、その後を継ぐことを決意。自分の決断になんの不安も抱かず、退路を断って仕事を辞めて専門学校に入学した。

その決断は、今考えれば何の根拠もなくただ母が治療師であった後を継ぐという安易なものであった。まったく起業に必要なノウハウをまったくもたないまま、サラリーマンを辞めてしまった自分のその当時を考えると寒気がするほど甘ちゃんだった。

しかし、その決断は私にとって、人をヒーリングするという人生の使命に向かわせてくれる最初のステップでもあった。

40歳で専門学校を卒業した私は、はたと困った。

母と折り合わないのである。母自身は自分のやって来たやり方を変えるつもりはなく、新しい治療法を試そうとする私とことごとくぶつかった。

私も、経験がないゆえに最善の治療法がなんであるかも分からずに、ただただ母を批判していた。

結論は、母とは別に治療院を開業するしかなかった。5年間母の元でインターンをした私は、バンクーバーでユニークな治療をしている治療師の元を訪ね、弟子入りをする決心をした。

この決断も何の根拠もなく、ただやってみたい一心であったので母を除く全ての人から反対されたが、とにかくバンクーバーで弟子入りを開始。

しかし、この師匠がとんでもなく女好きで評判を落としているのに気付くのに長くはかからず、最終的には弟子入りを断念。師匠に裏切られる形で辞めた。

それまでに出会ったバンクーバーの人たちが私を日本に帰らずバンクーバーで暮らすよう勧めてくれて、私自身の治療院オープンに至る。

多くの見知らぬ人たちが自分の応援団として支えてくれ、何とかバンクーバーに住めるようにはなったが、それから自分自身で暮らせるようになるまでが大変であった。

私の四十代は、ともかくたった一人、異国の地で治療院を開くことで、いろいろな人生の学びとなった。

「魂整体」開発まで

2002年にバンクーバーに来て、2003年の4月にSotai Canada という治療院をオープンした。

ここまでは、友人や知り合った内科医をはじめさまざまな出会った人からの助けがあって漕ぎつけた結果なので自分で何かをなしたという気はなかった。あれよあれよという感じだった。

しかし、いざ治療院を始めてみると、どうやって患者を集めるからはじまってサラリーマン時代には経験したことのない問題が山積みだった。今、もう一度おなじことをやるかと言われれば、即座にノーというだろう。

しかも、カナダに来る直前に再婚していた妻を日本置いて来ていたので、治療院をなんとか軌道に乗せようと必死であった。

今考えると、英語も読めず書けずしかも話せずという3重苦の中、勝算があったのかと問われれば、「知らぬが仏」ということもあると答えるしかしようもない状態で、一世一代の博打だったのかも知れない。

2004年には妻を呼び寄せ、3月には長女が生まれている。とにかく頑張るしかなかった。ひとり、またひとりと患者は増えていき、やっと2005年頃にはなんとか生活ができるようになった。

正直言ってこの頃の思い出は極端に少ない、というかあまりに必死で毎日がメリーゴーランド状態だったので記憶回路が遮断されているような感覚さえあった。

細かいことを言えば、きりがない。永住権取得に弁護士事務所を7か所くらい回り、「絶対に無理」と言われて諦めかけていたところに凄腕のコンサルタントに助けてもらい、あることないこと作文してもらって、切り抜けたこと。

移民権取得のプロセスの最終段階の健康診断で尿の潜血反応がでてしまい、あやうく3年くらいの努力が全部パーになりそうになったこと。ビジネスライセンスを取得するのに、コンサルタントを雇ったのだが、こいつが詐欺まがいで80万円くらい失ったこと。

銀行にビジネス口座を開いたが、銀行から紹介された磁気カード読み取りシステム業者が悪徳業者でえらい迷惑をこうむったこと、などおよそ日本では考えられないような変な問題が次々起こった。

最初に入った治療院のビルが建て直しで立ち退きをくらったが、新しい場所を見つけてビジネスライセンスの再申請をしようとしたら、市役所がストライキに入って、4ヵ月以上何もできなかったこと。

これには話の落ちがあり、これ以上仕事ができないと日本に帰るしかないというギリギリの状態で市役所職員がストライキをしている前で、アシスタントが涙ながらに惨状を説明すると、なんと2日後にビジネスライセンスが再発行された。(いったい公共性ってなんなの??)

今では、これらがカナダの普通だと納得しているが、だからこそこちらでは弁護士業が必要なのだとしみじみ痛感している。

2005年あたりから一般に操体法を普及しようとしてセミナーなどを開きはじめた。しかし、やはり英語が壁になって、なかなか思うように進まない。

この時期に育てた日本人やスイス人の弟子たちは、今でも操体法をやってくれているが、私と英語を話すアシスタントの2人だけでは、治療院を運営するのが精いっぱいで協会設立や運営などはとても無理だった。

次第に、日本人だけでなく英語を話す患者も増えたが、ともかく目の前の症状に対応するために、東洋医学や西洋医学、さまざまな代替医療を試しながら自分独自のスタイルを作らざるを得なかった。

その1つにエネルギー療法がある。

8割以上の患者が肉体的な問題とともにストレスを抱えすぎるなどの精神的な問題が、根本的な痛みの原因となっていた。そのため肉体的なバランスを整える「操体」という手技だけではどうにもならないケースを数多く遭遇したことがきっかけになった。

私自身はレイキなどのヒーリング手法は、目に見えない世界のことなので患者さんから理解されにくいと感じていた。そのためコンピューターを使ったエネルギー計測器とミックスしたような根拠のあるエネルギー療法を模索していた。

そのシステムも2006年頃から使っていたのでかれこれ10年以上たずさわっている。最初のシステムから数えると今のエネルギー療法を行うコンピューターシステムも3代目だ。イギリス生まれNES(Nutri-Energetics Systems)である。

もう1つ、移民当初から頭から離れないことがあった。「操体」そのものに関することである。

私が難病を患ったときに出会った操体法は15歳から身を持って体感し、自分にはなくてはならない健康法になっていた。さらに言えば、「なぜ、巷の人たちが操体法を自分自身の健康維持に役立てていないのか不思議だった」

操体法は、自分でお気軽にできる健康法で、ケガ予防にはなるしからだに残った肉体的なアンバランスを一瞬にして消すことができた。夜、眠れない時など自分で操体法を行えば、即座に眠りにつくことができることも知っていた。

しかし、成人になって気づいたのは、誰一人その事実を知らないことだった。私の常識は、みなの非常識だったのだ。

操体は、もともと日本人のドクターが大正時代から培われてきた巷の民間療法、特に正体術などを総合的に研究して作り上げた健康法である。

なので、治療法として発達してきたわけだが、「からだの感覚を聴きながら、動きやすい方にからだを誘導すると痛みがなくなって、からだのバランスが取れて病気は治り、健康になる」という原理は、治療法だけで使うには違和感があるのだ。

「別に治療者に誘導されなくても、自分で覚えてしまえば、自分自身で出来るようになる」ということを私はすでに10代の頃に知っていた。

これも、教えてくれた医師が多忙で、コンセプトだけ話してくれて、自分で動く時間が多かったという偶然によるものだったが、自分の中でもどこをどのように順序だてて動けば、どのように治るというマニュアルがあったわけではない。

動いているうちに、気がつけばすべての痛みが消え、楽になり、バランスが整っているからだを実感していた。

操体法の治療師になって、このことを患者に伝えようと思ったら、はたと困った。だれでも自然にできるようになるものだと思っていたことが、そうではなかった。

出来る人と出来ない人など習熟度合いがバラバラで、結局は手取り足取り毎回指導することが一番簡単に健康状態に戻せることに気づいたのだ。

ここから、沸き起こった気持ちが、「教え方を工夫すれば、だれでも自分自身で操体法を使えるようになるのではないか」という気持ちの一方で「その方法を編み出せば、操体法治療はいらなくなって失業してしまうのではないか」という切実な矛盾であった。

結局、私の治療院では、セルフエクササイズと称して家で補助的にやってきてもらう運動を患者さんには2,3個お渡しすることにした。

これだと、家でできそうな動きをやってもらうだけなので、こちらも真剣に教え方を工夫する必要もなく、あくまで補助的なエクササイズとして治療を補う意味合いだったのだが。

それでも、やってもらうエクササイズの種類は経験に基づき増え続け、2012年頃にはこのセルフエクササイズを組み合わせて自分自身でからだの歪みを解決するシステムは、ほぼ90%以上確立していた。

しかし、集まって来る患者の治療を主体に行っていた私は、セルフエクササイズをシステム化して世に出してしまえば、操体治療そのものがほとんど不要になるという矛盾を解決することができずにずるずると時間を過ごしていたのだ。

2016年にトロントの知り合いが、ぜひ操体法セミナーを開いて欲しいという要請があったので、そこではじめてこの自分ひとりでおこなうセルエクササイズのシステム化を紹介しようと思い立った。

最終的には、諸事情でそのセミナーは行われなかったが、用意した資料は手つかずで残ったままだった。

2017年に入って治療院のはいっているビルの取り壊しが通告されたことや、新たな治療方法(DRT:Doublehand Recoil Technique)を取り入れた治療法の確立したことを機会に、今までできなかったこの操体のセルフエクササイズのシステム化情報を世に紹介しようと行動を開始し始める。

2018年にセルフエクササイズをする際に、自分の感覚を捉えることができない人が多いことに気づく。

その理由が精神的なブロックや思い込みがあることに気づき、からだだけではなくこころの領域を整える方法を模索。ソウルエッセンシャルメソッドにたどり着き、魂の声に従ってこころとからだを整える『魂整体』が誕生する。

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